神奈川大学附属中・高等学校 PTA緑会 公式ホームページ

インタビュー連載「教えて先生!」
広報部長 岩佐賢史先生 編(其の弐)
インタビュアー:令和五年度 PTA「緑会」会長 植田敦

私の入学したときは、中1と中2、高1と高2しかいなく、女子はいませんでした
―ここからは岩佐先生の昔のお話を伺っていきたいと思います。
先生は神大附属の2期生ですが、どうしてココを受験しようと思われたんですか?
実は、ここだけの話ですが、受ける直前までこの学校のことは知りませんでした(笑)
もちろん、神大附属ができたばっかりだということもありましたが、特によく調べたわけでもなかったんです。
ただ、地元の中学に行きたくなくて中学受験をしたっ、ていうくらいのノリでした。
―そうなんですか。まぁ、設立当初で情報もあまりなかったでしょうし、ネットもなかった時代ですもんね。
当時はまだ男子しかいませんでしたよね。
はい、私の入学したときは、中1と中2、高1と高2しかいなく、女子もいませんでした。教室もスカスカですね。1期生は4クラスしかなかったですから。でも校舎やグラウンドは最新の設備ですごい奇麗だったのをよく覚えています。
―まだ3号館や4号館は無かったんですよね?
はい。3号館は88年に共学になるときにできました。女子が家庭科をやるのに家庭科室がなかったですから。
図書室は今3号館にありますが、昔は校務センター2の場所にあったんです。
学校も出来たてホヤホヤでしたが、教員も若い先生委が多くて、非常に活気があったという印象がありますね。
―部活は何をされていたんですか?
ずっと野球部にいました。私たちの学年で25人も入部したんです。学年全体の人数からしたら多いと思います。
キャプテン翼が流行っていましたが、まだやはり野球人気がありましたね。
―昔の野球部だから、どこの学校も1年目はきつかったんじゃないですか?
そうですね、今とは全く違ってずっと走ってた記憶があります。あとは外野で球拾いという定番メニューです(笑)
―「水を飲むなっ」っていう時代ですね。
そうですそうです。だから中2くらいまでは本当にきつかったのを覚えてます。でも、外野を守っていて一つだけ楽しかったことがあるんですよ。
―見つからずに水を飲みに行くとかですか?(笑)
いえ、お恥ずかしいんですか、今の野球場とは違って、昔は外野から道路が見えたんです。
球を拾いに行ったときに、たまたま女子高生が歩いているときがあって、そういうときはよくお声がけさせてもらっていました(笑)
―男子校っぽいですね(笑)つらい部活の時間を忘れられる瞬間ですね(笑)そのほかに神大附属での思い出はありますか?
合唱コンクールで伴奏をしたピアノ男子だった
これも恥ずかしい話なんですが、合唱コンクールでピアノ伴奏をさせられたことがあるんです。
―先生、ピアノもお上手なんですか?
それがですね、そうではなくて、ただ小学校の時に2年くらいやっただけだったんですが、男子校だから、同じクラスで楽譜を読めるやつが私しかいなかったんです。2年やってるだけですから、そんなうまいわけでもないんですが、私がやらざるをえなかったんですよ。
その時の話が書かれた昔の広報誌が少し前に出てきて、それを見た先生方から「岩佐先生ってピアノ弾けたんですねっ。今でも弾けるんですか?」って言うんですよ。
「今も昔も弾けないのに、、、」って、すごい恥ずかしかったですね。
―そのピアノ男子の岩佐先生は、附属時代にすでに教員になろうと考えていらっしゃったんですか?

いえ、特に教員になろうとは中高時代では考えていませんでした。
―何かほかに将来の職業を考えていらっしゃったんですか?
そうですね、高校の時に天安門事件が起きて、東欧革命も起き、ベルリンの壁が崩壊するという世界的な大変動が同じ年に起きたんです。
ー日本でも平成に切り替わった時ですね。
そうですそうです。そういうのをニュースで見ていて、大学に行って、東ヨーロッパの勉強をしたいと思っていました。
そのほかにも、そういった世界情勢を伝えるフォトジャーナリストになって、カメラ片手に世界中を回りたいなとも思っていました。
―今まで地理の先生になるようなお話が全然出てこなかったので少し安心しました(笑)
でも、その当時は情報ソースがテレビか新聞くらいしかないわけだから、海外に興味が無いとなかなかリーチしないニュースですよね。
それはもしかしたら、兄の影響があったかもしれません。
兄は3つ年上で、都内の学校に通っていたんですが、やはりなんか都内の高校のモダンな感じを持っていて、
その当時から洋楽を聞いてたりしたんですね。だから僕も、「音楽はやっぱ洋楽だよね」みたいな、なんか変にひねくれてて(笑)、
なにか海外というものに視野が向いていたのかもしれませんね。
ーでも、東ヨーロッパの勉強を大学でしたいと思っても、その当時はそんな専門の学科は大学にあまりなかったんじゃないですか?

高い学力を持った子たちが、お互いに切磋琢磨しながら大学受験をできる
そうなんですよ。だから困ってしまったんですが、地理学科というのをみつけて、地理ならきっと世界中のことをやるんだろう。その中に東ヨーロッパのこともきっとあるだろう、というとても安易に受験大学を考えたんです。その当時、ちょうど国立大学の教育学部で地域研究みたいな分野がはじまって、じゃぁそこを目指そうと決めたんです。
―今みたいに細かい情報がなかなか取れない時代ですからね。
でも当時は半分以上が神奈川大学に進学する時代ですから、受験勉強するモチベーションを維持するのは大変だったんじゃないですか?
そうですね、これは野球部に感謝するところなんですが、同級生の野球部の子と話していると、もちろん野球のことは話すんですが、ほかにも将来のことを語るようになるんです。女の子のことを話したくてもいないですからね、周りに(笑)
その中で教員になりたいっていう奴や、テレビ局で働きたいっていう奴とか、体育大学に行きたいって奴とかがいて、
その仲間とそういう将来の話をよくしていました。なんせ、盆暮れくらいしか部活の休みはなかったので、部活の奴らとは常に一緒にいましたからね。
仲間と切磋琢磨していたのが一番モチベーションを保った要因だと思います。
―なるほど。それは今の附属にも継承されていますよね。野球部以外も。
今の神大附属を見ると羨ましいと思う時があるんです。だって、僕らの時代は神奈川大学以外の進路は4割ですからね。
それと比べると、今は、高い学力を持った子たちが、お互いに切磋琢磨しながら大学受験をできるわけですから。
大学受験だけでなく、前の話とも重複しますが、附属としての根本のKUプライドがあり、かつその学年でスローガンがあります。
そして各クラスでの目標というのもある。これがこの学校の生徒たちに連帯感を生み、お互いの助け合いの心にもつながっています。
この伝統はこのままずっと残していきたいと思っています。
私はこの学校で中堅世代の教員となって、今は担任を持っていませんが、この神大らしさみたいなものというのは各場面で作っていきたいし、若い先生にも伝えていきたいですね。
岩佐先生も小林先生と同じように、最初は教員を目指していなかったということが意外でしたが、
この学校の1年目から教員をされている大塚先生のような方がいらっしゃり、その大塚先生に習った岩佐先生が中堅教員としてこの学校の伝統を継承している。今はその岩佐先生に習った生徒が先生としてこの学校に戻ってきている時代となり、この学校の伝統を3世代にわたって継承しているという、神大附属の長い歴史を垣間見られたインタビューとなりました。
※このインタビュー当時(令和5年)は広報部長をされていた岩佐先生ですが、令和7年現在は、教頭職に就かれました。