神奈川大学附属中・高等学校 PTA緑会 公式ホームページ

インタビュー連載「教えて先生!」
進路部長 中川甲斐先生 編(其の弐)
インタビュアー:令和五年度 PTA「緑会」会長 植田敦

中学受験の塾ではトップクラス、でも御三家には興味が無く、その結果、、、、、
―今までは進路部長としてのお話を伺ってきましたが、ここからは中川先生ご自身のお話を伺っていければと思います。
まずは、先生のご出身からうかがってもよろしいでしょうか?
私の地元は綱島になります。
―ここからとても近くですね。
先生はこの学校出身ですが、小学校時代には塾には通われていたんですか?
N塾の日吉校に通っていました。
―それは親から言われて行ってたんですか?
いえ、実は、僕の仲いい友達が塾に行くというので「暇つぶしだ」って思って一緒に行くようになりました。
その友達が書道教室に通うといった時も一緒に行ったんです(笑)
僕としては、勉強するというよりは本当に暇つぶしだったんです。
―塾に行く前は、学校の勉強はできたんですか?
宿題というものをやったことがなかったんです。学校の授業も習ってるという感覚がなくて、教科書を見ても「ああ、あたりまえじゃん」みたいな感じでした。
―じゃぁ、塾に行っても勉強は簡単だったんじゃないですか?
正直、簡単でしたね。トップクラスに通っていましたが、その中でも上位でした。
ここまで聞くと、すごい嫌味っぽく聞こえるかもしれませんが、ちゃんとオチがありますから(笑)
―ほー、ということは挫折を迎えるんですね?(笑)でも、それだけ成績が良かったら、どこを受けたいとか目標はあったんですか?
笑っていただきたいんですが、最初塾側は、御三家とかにカウントできる子だって思ってるわけですよ。広告に書く合格者数にカウントできる子だって。それが、僕は中学で野球がやりたかったので、志望は横浜、東海大相模、桐蔭とかって言っちゃうわけです。
―塾の先生もずっこけますね。お前はなんでトップクラスにいるんだと(笑)
そうなんですよね。そこが、僕が塾に暇つぶしで通ってるってとこなんですが、理解されないですよね(笑)
―それで結局どこを受けることになったんですか?
塾の先生に「早稲田も野球できるぞ」ってすごい説得されて、2月1日に早稲田を受けさせられました。
2日は親が神奈川大学卒業してたのでここを受けたんです。家から近かったですし。
―ホント、とても珍しい受け方としか言いようがないですね(笑)早稲田に行かなかったっていうことはダメだったんですか?
実はですね、試験当日、着いたらそこは早実だったんです。早稲田違い(笑)
えーー、そんなことあります?
もう焦って焦って。焦った父親が早実の警備員さんに「早稲田はどこですか?」って聞いて(笑) そんな感じだったんで、受験一直線でもない僕とすると、もう別にいいや、みたいになってましたね。
昔は通学路が舗装されていなくて、土石流みたいに道が崩れる、、、、
ーそれで無事に神大附属に決まったと(笑)
そうなんです。
でも、ここに受験に来るときにびっくりしたのが、昔は道が整備されていなかったので、今の道路はなくて、全然違う道で通ってたんです。神社を越えて、民家の中を通ってみたいな。
ーそんなすごい道だったんですね。
そうです、そうです。だって、雨が降ると舗装されてないから土石流みたいに道が崩れるんですよ。
関澤先生も同じ道通学してたからよく知ってると思いますよ。
僕が高1の時くらいですからね、道が整備されたのは。
ーじゃぁ、今の生徒が中山駅から坂道がきついなんて言ってられないですね。
本当ですよ。どこがきついんだって言ってやりたいですよ(笑)
だから本当はここに通うのも。。。。って感じだったんです。

―先生は12期ですが、当時はそんな感じだったんですね。
担任団もすごかったですよ。菊池元校長や大塚禎、小林道夫といったメンツがいましたから(笑)みんな若かったですね(笑)
ー附属時代は勉強はできたんですか?
数学だけはダメでしたね。点Pに動かれると、見失っちゃうんですよね(笑)軌跡っていわれても、みたいな。
ー先生がそういうこと言っちゃだめです(笑) 生徒に勉強しろって言えなくなっちゃうじゃないですか(笑)
いやいや、生徒には、僕は悪い見本だから、ってぜひ覚えてもらいたいですね。全教科まんべんなく勉強しなさいって(笑)
ー部活はやはり野球部に入られたんですか?
はい、もちろん野球部に入りました。うまかったんですよ。しかもピッチャーでした。
岩佐先生がまだ野球部のOBとしてコーチで来てましたね。
ーそんな先生はやはり教師になりたいと思われていたんですか?
明確に教員になりたいとは思っていませんでしたが、教えるのは好きでしたね。
だから大学も小林先生と同じ国立の教育学部を受けたんです。
ーあれっ?先生は早稲田出身ですよね。
それがですね、ここも笑っていただくところなんですが、センター試験の成績から見ても余裕で受かってたはずなんですよ。自信があったんです。でもいつまでたっても通知が来ないんですよ。
ー出願は出したんですよね? だんだん先生のおっちょこちょい体質からオチが読めてきたように思いますが(笑)

中学受験に続き、大学受験でも大きな凡ミスを、、、
でも、大学で見つけた天職、、、
残念ですが、もちろん出願はちゃんとしてたんですよ。
実は、大学まで合格通知を取りにいかないといけなかったみたいなんです。それはだいぶ経ってから同級生に聞いたんですが。
ーえーー。じゃぁ先生、ミスミス辞退したことになっちゃったんですか?っていうか、またまた凡ミスじゃないですか(笑)
だから言ってるじゃないですか、生徒に悪い見本を教えてるんです(笑)
受験でこういう失敗をしてはいけない例を、一人で体現してるんです(笑)
進路部長にちょうどいいと思いませんか?(笑)
ーそ、そうですね(汗)
受験校の場所を間違えたり、受験の手続きがわかっていなかったり(笑)
ここまでの話を聞いて心配なのは、大学の授業には興味を持てたんですか?
教員をされてるわけですから卒業はされたと思うんですが。。。。
そこはご想像の通り、大学には全く興味をなくしてしまったんです(笑)
―授業がつまらなかったとかですか?
理由は2つありまして。1つはですね、サークルのみんなで野球の早慶戦を見に行ったんです。
僕が大学生の時って、鳥谷や青木、和田などがいて、すごい時代だったんですよ。
ーあー、いわゆる「鳥谷世代」ですね。リーグ4連覇しましたもんね。
そうです、黄金期なんです。で、観戦にみんなで行ったときに、
上級生が2年生の女子に向かって「今年の1年生の弁当すごいな。おまえらの時と全然違う」みたいなことを言ってたんですよ。
ー1年生の女子が先輩のお弁当を作ってたんですか。
まぁ、昔のことなので、特にそれで女子が嫌がってるとか、そういう感じじゃなくて、みんなで楽しくやってるんですよ。
でも、なんかそういう雰囲気が自分には合わないと思って、大学生活もだんだん身が入らなくなっちゃいましたね。
単純に自分の問題ですが(笑)
もうひとつ、国立に入学する前提だったので、学費とかのことも考えて、塾講師のバイトを始めたんですよ。某有名塾で最初は小学生を教えていたんですが、だんだん教えることが本当に好きになっちゃって。そこからもっと年代の上の子も教えるようになったんです。
ー科目は何を教えていたんですか?
社会と国語ですね。
ー社会も専攻してたんですか?
実はあと2単位で免許がもらえるところまでいってました。
ーちゃんと勉強なさってたんですね(笑)
でも、勉強が素でできる人って、天才肌だから、人に教えるのって逆に難しくなかったですか?
国語が得意な人って、勉強しなくてもできる人が多いから、長嶋茂雄的に「球が来たら、バーンて打てばいい」みたいな。
そうなんですが、中学生以上を教えるようになったときに、けっこう偏差値が低い子を受け持ったんです。
そのときに、どうやって論理的に国語を解くかということを必死に研究しました。いわゆる「解法」ってやつですね。
自分でそれをある程度習得したら、すごい人気講師になっちゃって、責任者とかにも抜擢されちゃったんです。
ーえっ?大学生の時にですか?
そうなんですよ。だから毎週本部会議とかにも出てましたね。大学生の分際で(笑)
ー大学生で塾の運営側をしてたってことですね(笑)
でも、あくまで大学生だから、授業と塾講師としての時間配分が難しかったんじゃないですか?
そうですね、大学には、どれだけ行く日数を減らせるかということを追及してましたね(笑)
基本週2日で済むようにしてましたからね。定期券買わないほうが得なレベルまでにしました(笑)
ーそこまで塾講師に熱中できたということは、普通から見ると「おいおいっ」って感じになるかもしれませんが、
逆に自分の好きな道を大学生時代に見つけられて、大学でそのための資格を取れたという、完璧な道でしたね(笑)
今考えるとそうなんですが、実は学校教員になるつもりはあんまりなかったんです。
最初はずっと塾講師をやろうと思っていたんです。河合塾さんとか東進さんで。
大学生で塾の責任者に抜擢。人気塾講師と超進学校の特進クラスの非常勤講師という二足の草鞋から神大附属の先生へ。
ーあー、そうなんですね。受験勉強を教えることに特化した形を志してたんですね。
そこから教員になろうと思ったきっかけはあったんですか?
大学で一応資格をとるための教育実習があるわけですよ。
それでまぁ卒業してるからココに来たわけです。神大附属に。
ここで実習をしているときに、授業以外での生徒とのかかわりをはじめて味わったんです。
もちろん実習生ですからそんな大したことをしたわけではないですが。でも、塾講師では味わえなかった経験だったんです。
そんな生徒との関わりが、教員になりたいと思ったきっかけでした。
そういえば、福家先生がまだ高校生でしたね(笑)
ーおそらく、運営までやっていた人気塾講師から新人教員になるというのは給料の面でも下手したら半額以下になることだと思いますが、そんなことなど関係ないくらい心を動かされるものがあったんですね。

学生から社会人になって収入がめちゃくちゃ減るという、普通はありえないことが起きましたね(笑)
大学院時代は、塾講師と都内の超難関校の特進クラスを非常勤でやっていましたから(笑)
ーいやー、そこまで受験特化型の先生だったのが、附属に戻ってきていただいたのには、口には出されない熱い思いが心の中に芽生えたということがよくわかりました。
そんな先生が附属の生徒さんに伝えたいことはありますか?
僕は国語はずっと勉強しなくてもできたんですが、ほかの科目も少しやるとできるようになっちゃうタイプだったんです。
だから逆に努力をしなくもなってしまって。まさに「ウサギと亀」状態なんです。
だから、うちの生徒には、才能があっても努力しないと駄目だよっていうことを伝えたいですね。OBとしても。
あとは、僕が務めていた塾の特徴でもあったんですが、勉強が苦手な子に、少しづつ問題が解けるようになってもらって、
成功体験というか、自己肯定感を増してもらって、どういう時でも「自分は大丈夫だ」っていう気持ちを持たせるのが僕は得意なんです。
今は担任を持っていないのでなかなかできませんが、生徒たちに身に着けてほしいのは、一時の成功・失敗で一喜一憂するのではなく、
自分への自信ですね。これは、解けた問題の難しさじゃなくて、昨日解けなかった問題が今日は解ける、っていう自分の中の成長で感じてほしいんですよ。他人との比較じゃなくて。
ーまさご自身を反面教師の材料にされた素晴らしい教訓を伝えて頂きましたが、ほかに保護者に伝えたいことはありますか?
保護者の方に言いたいのは、お子さんの気持ちを重視してほしいということです。
今までの私の経歴をお話しした通り、小学校の時の私は確かに勉強はできましたが、勉強や受験に興味はなかったんです。
それが無理やり受験することになりました。中・高でもとくに一生懸命勉強もしませんでした。
でもなんとなく「教えることが好き」みたいな、「あいまいな」「具体的でない」「ラフ」な思いというのを僕は大学時代に大学以外の場所で見つけることができました。もしこの気持ちがなかったら、大学も中途半端になっていたと思います。
皆さんのお子さんも、まだ具体的でない「雰囲気」の状態で自分の気持ちをなんとなく感じていることが多いんじゃないでしょうか。
そこに、親が「あれがいいんじゃないか」「これがいいんじゃないか」というと、その子の「なんとなく」の気持ちが消されてしまいます。
また、進路部長をしていると、子供の進路希望を無視して「こっちの大学のほうがいい」とか「地方大学に行かずに自分のそばにいてほしい」といった親御さんの意見を聞くことがあります。
親の言う通りの進路にして後悔している卒業生の話もよく聞くので、保護者の方には子供の気持ちをよく聞いてあげてほしいと思いますね。
中川先生には、自分の失敗談を後輩のための反面教師としてお話ししていただき、実直な先生なんだと改めて感じました。
また、進路部として多くの「受験体験」と「受験後の人生」を把握されている中でのお話は、親としての姿勢を問われるものでもありました。
最初のインタビューでもお話しいただいた、「受験の失敗」をどう見るかも含めて、私たち保護者の近視眼的な大学受験の考え方を見直すいいきっかけとしてこのインタビューを読んでいただけると幸いです。